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書評

ウルリッヒ・ベック著『ナショナリズムの超克 グローバル時代の世界政治経済学』

島村賢一訳、NTT出版2008

『図書新聞』2008118日号、1

橋本努

 

 

 話題となった『危険社会』の著者ベックが新たに取り組んだテーマは、「コスモポリタン現実主義」というグローバル化の規範理論。不透明な世界の権力ゲームはいかにして可能なのか。従来型のナショナリズムを越えるためのシナリオと戦略を、あらゆる観点から考え抜く。この世界のゆくえを透徹に見通した理論書だ。

著者によれば、一国主義的な発想は危険である。一番危ないのが社民の安全戦略なのだが、しかし私たちはこの思考にどっぷり浸かっている。その枠組を根底から反転させようというのが本書の狙いだ。国民国家からポスト国民国家へ、あるいは「第一近代」から「第二近代」へと、ビジョンの歴史的転換を明快に示しつつ、時代の新たなプロジェクトをゲーム論の「戦略メタファー」を駆使して縦横無尽に繰り広げる。「第二近代の理想を、コスモポリタン主導で実現せよ」というのが本書のメッセージで、これはつまり、人類に対する新たな歴史的課題の提案だ。

 振りかえってみると、九〇年代後半から盛り上がりをみせてきたグローバリズム論も、一巡した感がある。これまで「反グローバリズム」を掲げてきた論客たちは、どうも展望のない理念に立脚していたようだ。反グローバリストたちは反動的であったが、しかしそのエネルギーの一部は、逆説的にも別のグローバル化を推し進めてきた。これは「歴史の狡知」というものだが、その知的洞察をストレートに推し進めれば、コスモポリタニズムの発想が現実味を帯びてくる。

 例えば「急速な雇用の悪化」に対して、完全雇用の理想を掲げるというのは、望ましい雇用政策の基準とはいえない。反動として反グローバリストは、「企業」というコミュニティ単位での「正社員」の雇用確保に躍起になったのだが、それは結果として、非正社員を増やすことになり、雇用を流動化させることで、グローバル経済下での継続的な雇用確保につながった。

今や、雇用や安全といった国民国家の主要課題は、一国主義的な発想では解決できない。それをあたかも国家が独力で解決できるようなイメージを与えるとすれば、政治資源を誤った方向に用いてしまうだろう。

 しばしば誤解されることだが、グローバリズムの作用によって、「政治の論理」が「経済の論理」によって無力化されているわけではない。むしろ政治権力のゲームが、国家を超えた舞台へと移っている。だから私たちは、統治上の目標を達成するために、コスモポリタン的な統治に向かったほうが善処できるのではないか。

少なくともそのような権力のチャンスがあるかぎり、その可能性をめぐって実際に新しい政治のゲームが闘わされるのであり、このゲームに絡むかたちで諸問題を解決していかないと、国家は力を失っていくだろう、というのが著者の診断だ。権力の新たな形成をめぐって、手続き的な民主主義は無力であり、国家は、あるいはコスモポリタンは、マキアヴェッリのような革新者になるべきだという。

この主張はある意味で、アメリカのイラク攻撃を正当化する権力絶対主義といえるかもしれない。イラク攻撃の正統化を導いたネオコンの思想も、マキャヴェリズムに基づくものだったからである。しかしベックの慧眼は、アメリカを批判するヨーロッパの左派勢力であれ、あるいはアムネスティや反G8といった世界市民的な活動体であれ、いずれも民主主義にその正統性を根ざすのではなく、権力政治的な戦略思考によって、自らの正統性を獲得しなければならないと指摘する点だ。例えば、各種の人権擁護団体は、「世界世論」というほとんど実体のないものを、マスメディアで工作しなければならない。世界世論を演出しながら、国家レベルの政治を動かさなければならない。それができるのは、国家を超えたところに「人権」という「正統性資本」が存在するからであり、またその正統性の資本を動かすことができるのは、信頼ある情報を産出することのできるNGOである、とベックは考える。

 むろん世界政府が存在すれば、人権問題に組織的に応じることができよう。だがそれが存在しない現在、人権問題に対しては、さまざまなコスモポリタンたちが、崇高な理念を掲げてゲリラ的に対応していくほかない。正統性の資本は、そうしたコスモポリタンに対する信頼の他に、代替することができない。政治的支配の正統性の問題を考えるとき、人権の理念は、グローバルな世界にとってかなり重要な意義をもっていることが分かるだろう。人権がどれだけ保障されているかという問題は、その国に経済資本をどれだけ投下するかという問題にも関係してくる。人権を守らない国からは、経済資本が逃避してしまう。グローバルな経済資本の「出口戦略」があるかぎり、現代の諸国は、発展の可能性を資本にコントロールされているのである。実に支配の正統性は、経済資本によって、さらには国家を超えた正統性の資本(すなわち人権)によって、制御されているわけだ。これこそ、普遍主義的な世界の生成メカニズムではないか。

 これに関連してベックが指摘しているのは、政治的な対立というものが、もはや国内の左派/右派を超えて、一国主義/国際主義(例えばEU機関)という問題へとシフトしている点だ。一国内部で右か左かを争う問題は、もはや瑣末である。問題はむしろ、国民国家をコスモポリタンの企てでもって発展させる戦略を、認めるかどうかにある。その場合、コスモポリタンの立場は、「右」でも「左」でもあるのであって、例えば「欧州創設の父」とされるロベルト・シューマンやコンラート・アディナウアー、あるいはシャルル・ド・ゴールといった人物は、敬虔なカトリックであり、保守的な右派のコスモポリタンであった。国家を超える組織は、左と右の連携によって生成していく。その意味で、コスモポリタニズムの現実主義は、右と左にそれぞれ相応しいプロジェクトを与えている、というのがベックの見方である。

 右と左の連携、あるいは複合によって世界秩序を形成していくというビジョンは、小生が拙著『帝国の条件』で構想したシナリオでもあった。ただベックが面白いのは、この問題を政党政治に応用して、「世界政党」という新たなコスモポリタン政治を展望している点だ。多国籍企業があるなら、多国籍政党があってもいい。そのような世界政党を通じて、各国の政治家たちがコスモポリタン的な視点をもって国政にあたるなら、コスモポリタニズムは本当に現実的になっていく。万国の労働者が再び団結する日も、夢ではないだろう。次世代の世界像をたくましく探求する。そのベックの姿勢に、小生も大いに鼓舞された。

 

(政治思想・橋本努)